昔から多くの日本人に愛されて食用とされてきたふぐですが、現在に続くような本格的なふぐ料理の出発点は、安土桃山時代です。
日本から朝鮮出兵した文禄・慶長の役の際に、武士たちは現在の九州地方に集められました。そこでふぐを食べて中毒になってしまい死亡する武士が続出します。それに対して、怒りをあらわにした豊臣秀吉は、「河豚食用禁止令」を発布します。それでもふぐの食用を隠れて続ける武士が多かったために、一部の藩では、厳しい処罰を行っていました。それから続く江戸時代においても、ふぐ食の禁止は続けられていましたがそれでも中毒になる武士がいたために、毛利藩では河豚の食用が発覚した場合には、お家断絶などの厳罰化がなされていたという逸話もあります。ですが武士以外の平民たちの間では、平然とふぐ食の文化が発展していったそうです。松尾芭蕉のよんだ詩や浮世絵などにおいても、ふぐ食の文化が色濃く表れていました。この禁止令は明治時代まで続いていたのですが、1887年初代内閣総理大臣であった伊藤博文によって解かれることになります。その時、伊藤博文は自らが名付けた春帆楼という下関の料亭にいました。伊藤は春帆楼の女将に下関で一番美味しい魚を出してくれるよう頼みました。しかし、当時海は大しけの状態で魚は全く獲れておらず、出せる魚はありません。女将は悩んだあげく、打ち首に罰せられるのを承知でふぐを出しました。するとそれを食べた伊藤はあまりの美味しさにひどく感動。「こんな美味しいものを禁止してはならない」ということで1888年に当時の山口県知事、原保太郎に山口県限定でふぐ食の禁止を解くよう命じました。全国で禁止令が解かれたのは太平洋戦争後になります。こうして春帆楼はふぐ料理公許第一号店として有名になっていきました。「ふぐの本場といえば下関」と言われるのにはこのような歴史があったそうです。
以上今週の会長の時間でした。