本日の会長の時間は「車いすマラソン」についてです。
昨日、第43回大分車いすマラソンが開催されまいたが、第1回は1981年、「障がい者スポーツの父」と言われる大分中村病院院長でありました中村 裕(なかむら ゆたか)博士の提案によって日本初の「国際車いすマラソン」始まりました。
中村博士は、大分県別府市に生まれ、九州大学医学部で学び、故郷の国立別府病院で整形外科科長を務めていた時にイギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターに留学し、ルードウィヒ・グッドマン博士に学びます。
このグッドマン博士はスポーツをリハビリテーションに取り入れるという、当時としては画期的な手法を導入し、現在のパラリンピックのルーツとなる国際ストーク・マンデビル競技大会を創設していました。
多くの脊髄損傷患者がスポーツを通じて社会復帰を果たしている姿に衝撃を受けた中村博士は、帰国後、1961年に大分県身体障害者体育協会を設立、同年第1回大分県身体障害者体育大会を全国で初めて開催し、翌年には第11回国際ストーク・マンデビル競技大会へ費用を捻出するため自家用車を売却して選手2名を派遣したそうです。
このニュースが世界に向かって報道され、国内でも認識が改められ、障がい者スポーツに対する関心が高まっていきました。
1960年のローマオリンピック開催後に、同地で国際ストーク・マンデビル競技大会が開催されていました。
これが第1回のパラリンピックとなり1964年、東京パラリンピック開催へと繋がります。
1965年に日本障がい者スポーツ協会の発足と第1回全国身体障害者体育大会が開催され中村博士の功績は、大分県を日本の障がい者スポーツ発祥の地へと押し上げました。
車いすマラソンの歴史は1974年にオハイオ州で開催された「第1回アメリカ車椅子大会」がその起源とされています。
当県には、国内でも歴史と伝統を誇る別府大分毎日マラソンがあります。
中村博士は大分陸上競技協会などへこの別大毎日マラソンへ車いすでの参加を正式に申し入れますが、「足で走る」というルール上の問題から実現には至りませんでした、しかし、「車いすだけの大会を開催するなら協力する」との言葉をもらい次へとつながります。
1981年は国連総会で国際障害者年となることが決定しており、大分県ではその記念行事を検討していました。
そこへ「世界初となる車いす単独の大会を」という中村博士の提案が持ち込まれ、ついに大分国際車いすマラソンの開催が決定します。
1981年11月1日、世界15カ国の地域から117名の車いすランナーが参加し、ここに大分国際車いすマラソンの歴史が始まりました。
弊社でも昨日は会場の一部を設営してましたので、撤去のためジェイリーススタジアムに行っていました。
大会が終わってから会場入りしますので、私が会場付近に行った時は参加者の方々が帰路へついている時なのですが、スタジアム横の大分川沿いの道を反対車線を逆走して舞鶴橋へ向かう車イスの方がいました。
「危ないなぁ」と思ったのですが、車の来ない川沿いの土手上の道へは階段を上がらないといけない、車いすが逆走していた道は、道幅が狭く歩道もない、車の横を通るのが難しい、という事に気がつきました。
あらゆるとこでバリアフリー化は進んではいますが、まだまだだなぁと感じざるをえません。
障害者が安全であることは健常者にも安全であるのは間違いないので費用のことも当然あると思いますが進めていただきたいと思いますし、当然、人と人、ソフト面でのバリアフリー「障害者と健常者が共に歩む共生社会の実現」を目指さないといけませんね。
当クラブの奉仕プロジェクトでも障害者施設、障害者スポーツへの支援事業を私が持っている資料では2013年 橋本啓年度、2015年 長縄年度、2016年 岩田年度、2017年 園田年度に行っています。
今後の活動の中で青少年と心のバリアフリーについて活動するのもいいな と思いました。
以上、会長の時間でした。